なんちゃらフリーという曖昧さ
なんちゃらフリーというのに違和感があった。
なんで違和感があるのか腑に落ちない為、いろいろと考えた。
仕事をするにあたって、曖昧さというのは限りなくなくして
明確にしたいというのがある。
だけど、世の中はだいたい曖昧で
曖昧さを打ち出す人達もいて
明確なものがよいのか、曖昧なのがよいのか分からなかった。
そして、曖昧さを打ち出す人々が不思議だった。
自分の状況が曖昧なだけで、こうありたいというのがあれば分かりやすかった。
そういう人達のことは理解できる。
今の状態が曖昧で、はっきりとしたいという理由で悩む人は理解できた。
曖昧さが僕の悩みの種だった。
いろいろ思考をしているうちに
明確な曖昧というのも存在するということに気づいた。
それは答えがでないものだ。
答えがでないものに対して明確に答えているという事情なのだと。
曖昧なことは分かりづらい。
何故なら、はっきりと明確なものが分かりやすいからだ。
そして世の中は曖昧だ。
曖昧でできる世の中は優しさと愛で出来ているんだと思う。
だからといって、僕は曖昧の中で明確なものをきっと探すだろう。
他人の曖昧さは許容しながら、理解に努めよう。
明確なものを翳すことなく生きよう。
そして曖昧なものも翳すことなく謙虚に生きよう。